VR社会は痛覚を刺激できない

阪大の高橋先生たちと飲んだ席での話。



高橋先生のいう「ソーシャルな暖かい感じ」は定義によると思うが、私は、VR環境で肉体的な痛みを与えることはできない、と思っている。なぜなら、これは単純に技術的な問題ではないからだ。

とはいえ正直なところ、博士(工学)の人間として、技術でできないことがあると軽々しく言いたくないプライドは、ある。もちろん、VR上で痛覚を刺激すること自体は簡単だ。遠隔であろうが自動生成であろうが、そうしたシステムを作ることは難しくないし、すでに存在している。
例えば侵害に当たらないような弱い痛覚を与えることは、現状でも許可されうる。また限定的に参加者の同意を得た空間で、そうした強制的なインタフェースを使うことはできるだろう。例えば複数人でプレイし、失敗した時に、何らかの肉体的痛みを伴うゲームは、許容されうる。
しかし、その参加者からは同意を取る必要がある。同意を得ない人に対して、痛覚を刺激する、という自由はない。
「コミュニケーション時にはかならず痛覚を伴うVR環境で連絡せよ」と強制する社会は、恐らく我々が暮らしたいと思う社会ではない。

使用者に大きな選択肢が許されたVR環境と異なり、実社会でのやりとりには、何かあった時に、そうした痛覚を得るという切迫感がある。状況によっては、嫌な相手とも場を共有しなければならないし、万が一の時には相手に殴られる、というような切迫感が存在する(通常、節度を持った振る舞いをしてればそんなことはあり得ないが、可能性としては常にあり得る)。
実環境の存在感、と言われるものの多くが、このような侵害可能性を含んだものであると思う(この点において、ロボットエージェントの優位性を主張するHAI研究には、ある程度の理がある)。嫌な相手を「ブロック」したり「ミュート」したりできないのが、実環境(あるいは、基底現実?)というものだ。



もちろん、VRで不要な侵害を得ずに活動できる、というのは、これは一般的にはとても良いことであると思う。
私は、こうした不自由さをあえて享受しなければならない、とは思わない。痛みが社会に欠かせない性質である(たとえば、成長に必要なものである)という考え方も、私は基本的にしない。痛みは、避けられるならば、避けたほうが良いものに決まっている。強要するものではない。

ただし、実社会で存在する性質がVR社会に存在しない(できない)、ということは、社会におけるコミュニケーションの質を不可避的に変化させると思う。
肉体的な痛みを与えられない社会であっても、人の暴力性が失われることはない。人間の持つ暴力性が変化せず、肉体的な痛みを与えられない社会になる場合には、不可避的に存在するコミュニケーションチャンネルそのものが、相手に痛みを与える手段として使われる可能性が高いと思っている。
よって、素のVR社会は、精神的かつ社会的な攻撃手段が、現実世界よりも発達する社会になりえるし、それに対抗するような手段も、多々発生するだろう。



以上は私オリジナルのアイディアではない。漫画家の篠房六郎さんが「空談師」(読み切りと連載)「ナツノクモ」(連載)で描いてきた発想を基に、考えを発展させたものである。
空談師やナツノクモがVR環境に示唆する点については、VRに関するメディア、MoguraVR中で宮樹弌明さんが触れている。
篠房六郎がVRと心の救済を描いた2作品『空談師』『ナツノクモ』-フィクションの中のVR【第9回】
これらの作品に共通する原理は「オンライン・VR社会で五感、特に痛覚を共有することは(以上のような理由から本質的に)できない」ということだ。VR空間でのコミュニケーションは、好きな時に初めて、好きな時に止められる。強制性を与えるのは、肉体的な痛みを担保とした存在感ではなく、社会的な関係性しかない。そして、それが物語を駆動する根本的な原理になっている。

「空談師」や「ナツノクモ」は現状から見ると、本当に予見的な描写が多い。自身でVRCHATをプレイするようになってから、特に類似の現象を多く見かけるようになった。ウガンダナックルズ、シェーダーや音声による荒らし行為は、空談師に登場するグロテスクな外装の荒らしを思い起こさせるし、VR自体を現実空間として振る舞う「痛がり屋」のような存在も多い。獣の衣装が多いVR空間は、若干ながらナツノクモの動物園を思い起こさせる。動物園自体、マイノリティの集合体だ(世界中に、そうした人がいる)。そこに対する好機の目線は、ネットのイエロージャーナリズムそのものだし、動物園の浄化を試みる魔術ギルドと騎士団との戦闘は、昨今の炎上、社会正義とコミュニティの規範のぶつかり合いを、強く想起させる(対立する両方が、イエロージャーナリズムを否定しているのが、また面白い)。
作者はMMORPGの経験からこの作品を描かれたものと思うので、おそらくネットワークでつながれた、人間に選択の自由を与える社会における、共通の性質が含まれているように思われる。



話を戻し「ソーシャルな暖かい感じ」を出せるか、という話になると、私の直感では、ある程度可能であるように思う。
ただし、それは現実に存在するものと、類似のものではない可能性が高い。また技術的な解決策のみでは、届きえないビジョンであるように思われる。理工人文合わせ、想像力を、現実も虚構も含め、フル活用する必要があることだろう。

まだ、あまりまとまってはいないが、このあたりのことについて、6/5朝の人工知能学会企画セッション「未来社会の知能・虚構・リアリティ」で、鳴海拓志氏、届木ウカ氏、柴田勝家氏と議論したいなあ、と考えている。


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