2019/05/14

VR社会は痛覚を刺激できない

阪大の高橋先生たちと飲んだ席での話。



高橋先生のいう「ソーシャルな暖かい感じ」は定義によると思うが、私は、VR環境で肉体的な痛みを与えることはできない、と思っている。なぜなら、これは単純に技術的な問題ではないからだ。

とはいえ正直なところ、博士(工学)の人間として、技術でできないことがあると軽々しく言いたくないプライドは、ある。もちろん、VR上で痛覚を刺激すること自体は簡単だ。遠隔であろうが自動生成であろうが、そうしたシステムを作ることは難しくないし、すでに存在している。
例えば侵害に当たらないような弱い痛覚を与えることは、現状でも許可されうる。また限定的に参加者の同意を得た空間で、そうした強制的なインタフェースを使うことはできるだろう。例えば複数人でプレイし、失敗した時に、何らかの肉体的痛みを伴うゲームは、許容されうる。
しかし、その参加者からは同意を取る必要がある。同意を得ない人に対して、痛覚を刺激する、という自由はない。
「コミュニケーション時にはかならず痛覚を伴うVR環境で連絡せよ」と強制する社会は、恐らく我々が暮らしたいと思う社会ではない。

使用者に大きな選択肢が許されたVR環境と異なり、実社会でのやりとりには、何かあった時に、そうした痛覚を得るという切迫感がある。状況によっては、嫌な相手とも場を共有しなければならないし、万が一の時には相手に殴られる、というような切迫感が存在する(通常、節度を持った振る舞いをしてればそんなことはあり得ないが、可能性としては常にあり得る)。
実環境の存在感、と言われるものの多くが、このような侵害可能性を含んだものであると思う(この点において、ロボットエージェントの優位性を主張するHAI研究には、ある程度の理がある)。嫌な相手を「ブロック」したり「ミュート」したりできないのが、実環境(あるいは、基底現実?)というものだ。



もちろん、VRで不要な侵害を得ずに活動できる、というのは、これは一般的にはとても良いことであると思う。
私は、こうした不自由さをあえて享受しなければならない、とは思わない。痛みが社会に欠かせない性質である(たとえば、成長に必要なものである)という考え方も、私は基本的にしない。痛みは、避けられるならば、避けたほうが良いものに決まっている。強要するものではない。

ただし、実社会で存在する性質がVR社会に存在しない(できない)、ということは、社会におけるコミュニケーションの質を不可避的に変化させると思う。
肉体的な痛みを与えられない社会であっても、人の暴力性が失われることはない。人間の持つ暴力性が変化せず、肉体的な痛みを与えられない社会になる場合には、不可避的に存在するコミュニケーションチャンネルそのものが、相手に痛みを与える手段として使われる可能性が高いと思っている。
よって、素のVR社会は、精神的かつ社会的な攻撃手段が、現実世界よりも発達する社会になりえるし、それに対抗するような手段も、多々発生するだろう。



以上は私オリジナルのアイディアではない。漫画家の篠房六郎さんが「空談師」(読み切りと連載)「ナツノクモ」(連載)で描いてきた発想を基に、考えを発展させたものである。
空談師やナツノクモがVR環境に示唆する点については、VRに関するメディア、MoguraVR中で宮樹弌明さんが触れている。
篠房六郎がVRと心の救済を描いた2作品『空談師』『ナツノクモ』-フィクションの中のVR【第9回】
これらの作品に共通する原理は「オンライン・VR社会で五感、特に痛覚を共有することは(以上のような理由から本質的に)できない」ということだ。VR空間でのコミュニケーションは、好きな時に初めて、好きな時に止められる。強制性を与えるのは、肉体的な痛みを担保とした存在感ではなく、社会的な関係性しかない。そして、それが物語を駆動する根本的な原理になっている。

「空談師」や「ナツノクモ」は現状から見ると、本当に予見的な描写が多い。自身でVRCHATをプレイするようになってから、特に類似の現象を多く見かけるようになった。ウガンダナックルズ、シェーダーや音声による荒らし行為は、空談師に登場するグロテスクな外装の荒らしを思い起こさせるし、VR自体を現実空間として振る舞う「痛がり屋」のような存在も多い。獣の衣装が多いVR空間は、若干ながらナツノクモの動物園を思い起こさせる。動物園自体、マイノリティの集合体だ(世界中に、そうした人がいる)。そこに対する好機の目線は、ネットのイエロージャーナリズムそのものだし、動物園の浄化を試みる魔術ギルドと騎士団との戦闘は、昨今の炎上、社会正義とコミュニティの規範のぶつかり合いを、強く想起させる(対立する両方が、イエロージャーナリズムを否定しているのが、また面白い)。
作者はMMORPGの経験からこの作品を描かれたものと思うので、おそらくネットワークでつながれた、人間に選択の自由を与える社会における、共通の性質が含まれているように思われる。



話を戻し「ソーシャルな暖かい感じ」を出せるか、という話になると、私の直感では、ある程度可能であるように思う。
ただし、それは現実に存在するものと、類似のものではない可能性が高い。また技術的な解決策のみでは、届きえないビジョンであるように思われる。理工人文合わせ、想像力を、現実も虚構も含め、フル活用する必要があることだろう。

まだ、あまりまとまってはいないが、このあたりのことについて、6/5朝の人工知能学会企画セッション「未来社会の知能・虚構・リアリティ」で、鳴海拓志氏、届木ウカ氏、柴田勝家氏と議論したいなあ、と考えている。


2018/02/25

Drawing AI Ethics in Manga - "AI no Idenshi"

「AIの遺電子」を海外に勧めるなら、と思って書いた文章。書きかけ。この記事は後々編集されます。


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AIの流行によって研究者だけでなく一般に向けても、多くの出版物が出版されている。日本においてもその状況は同じであり、研究者と作家が組んだアンソロジー等も多く登場している。特にサブカルチャーに特色を持つ日本では、こうした紹介がノンフィクションや小説だけでなく、漫画やアニメといった形でも描かれる。その一つの例として、山田胡瓜氏の「AIの遺電子」を紹介したい。

山田氏はインターネットのニュースサイトでの記者の経験を持つ作家である。そのサイトで「バイナリ畑でつかまえて」というシリーズを出版したのが彼の商業的な経歴の始まりとなる。「バイナリ畑でつかまえて」は、「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルをもじっている。最先端技術によって変容する人間関係を繊細に描いた作品であり、識者の間で評価の高い作品集であった。
その山田氏が、週に一回連載される少年漫画の世界で続き物として描いた作品が「AIの遺電子」である。この作品は週刊少年チャンピオンにて2015年11月から、2017年8月まで連載された。現在は続編の「AIの遺電子 RED QUEEN」が別冊少年チャンピオンで連載中である。この作品は多くの読者のみならず、AIに関わる研究者の注目も集めている。例えば深層学習の研究で有名な東京大学の松尾豊氏や、ロボット倫理に関する哲学者である久木田水生氏がこの作品を勧めている。私も本作品の愛好家の研究者の一人である。

「AIの遺電子」はヒューマノイドやロボットの「治療」を行う「医者」須藤を主人公とした短編集である(須藤は日本人の名字としてはありふれたものだが、一般ユーザに管理者権限を与えるUnixのコマンド名と同じスペルでもある)。登場する人間やヒューマノイドたちは様々な悩みをもって須藤に関わり、その治療を受け、結果としてかれらの「人生」のあり方を決める。
こうしたヒューマノイドの治療は配線を繋ぐような直接的な「修理」として描写されることもあるが、物語中では須藤が心理療法士のように対話を通じて分析する過程も描写される。ヒューマノイドの心的問題を推定する須藤の手法は、AsimovのI, robotに登場するSusan Calvinを彷彿とさせるが、一方でかつて同誌少年チャンピオンに連載された、裏医師の治療を軸とした短編集、手塚治虫の「ブラックジャック」を彷彿とさせる点も多い。ブラックジャックと同じように、須藤は裏の顔を持っており、高額の治療費をとって法的に許可されない治療を行う、モッガディートと呼ばれる裏医者の顔がある(モッガディートは、James Tiptree, Jr.の短編集に登場する非人間型の種族から取っており、本作品のSci-Fiに対する配慮を暗示する)。
須藤はブラックジャックと比べると感情の起伏が少ない人間として描かれる。ブラックジャックの助手であり、再構成された人間であるピノコと同じように、彼にはリサという名前の助手のヒューマノイドがおり、彼女が物語におけるコメディリリーフの役割を果たしている。感情の起伏が少ない人間と、喜怒哀楽の豊かなヒューマノイドのコンビネーションは、私達の技術に関する固定観念を揺さぶりつつ、技術と人間性の関係性の危うさを示唆する。

物語には3種類の登場人物が登場する。人間、ヒューマノイド、そしてロボットである。山田氏は、物語を進める人工的なキャラクターを、ヒューマノイドとロボットに分割するという鮮やかな手法で技術的問題の本質をえぐり出す。ヒューマノイドは人間と同様の人権を持っており、その内面の苦悩まで詳細に描写される。ヒューマノイドは能力や価値観といったパラメータを大きく変更可能であることを除けば、我々とまったく変わりはない人間である。物語上、こうしたヒューマノイドは最先端技術によって価値観の変更を迫られる人間を示唆している。一方の、この作品のロボットは人権を持たない「道具」として扱われており、その内面は決して描かれることはない。ロボットが登場する物語では、ロボットを取り巻く人間やヒューマノイドが、そのロボットをどう受け止めるかが描かれており、最先端技術を受け入れる人間社会の難しさを描いている。

AIの遺電子で描かれるAI・ロボットたちは、極めて抑制的であり、他のAI・ロボット小説やマンガと比較すると、より現実的である。これは山田氏がもともと技術系サイトの記者であったことと無縁ではないだろう。静謐なトーンで描かれる本短編集は、アクション映画に登場するような近未来的なAIやロボット技術でなくても、そこには私達の心を十分動かすような問題が含まれていることを、読者に教える。ヒューマンエージェントインタラクションの研究者としての、私のお気に入りの例をいくつか挙げたい。28話の「謝罪」では、暴力的なクレーマーに謝罪を行うための専門のエージェントが登場し、「見本的」な問題解決を行う(彼らのやりとりは、あまり好ましくないタイプの「伝統的な」日本らしさを兼ね備えており、私はこれを苦笑しながら眺めることになった)。これは相手の感情に合わせる感情労働の一種だが、登場したエージェントたちが人間であるか、あるいはヒューマノイドであるかは、最後まで明かされない。AIやロボットは人間の労働を置き換えるものではなく、その補佐をするものである、という言い訳はよく行われる。しかし技術が発達し人間に残される仕事とは、つまりはこうしたある種の感情にかしづく仕事しか残っていないのかもしれない、ということをこの物語は示唆する。あるいは彼らエージェントをヒューマノイドと解釈すれば、こうした「人間らしい仕事」こそ、人工物に任せるほうが我々は「人間的な」生活を送れるのかもしれない、ということも暗示される。一方の55話の「喧嘩夫婦」では、冷めきった夫婦の間を取り持つため、須藤が関わる。これは大きな事件ではないが、人間の感情の生得的な側面と社会的な側面が余すこと無く使われている。物語でしか描き得ない繊細さを持っており、グレッグ・イーガンの「appropriate love」と比較しても、遜色ない価値を持っている。

その大きな注目にも関わらず、AIの遺電子には未だ英訳が存在しない。作者の山田氏は現在続編を連載中であるが、一方で過去の作品を選集として選び、英訳することに興味を持っている。FLIやIEEEといった技術に関する著名な団体が、AI・ロボット倫理に関する議論を活発に行っている昨今、彼の短編を一つの未来の描写の手がかりとして議論するのは、意義のある機会となるだろう。私も良い定訳が出ることを望みたい。

2014/01/01

人工知能学会の表紙について、会員として調べた/考えたこと

●筆者は何者か

人工知能という広大な研究領域の一角で、ヒューマンエージェントインタラクション(HAI)という研究分野を行っている研究者の一人です。HAIを簡単に述べますと、人と、人に見えるような「エージェント(ロボットや、仮想エージェント)」との相互作用を扱う学問です(実際はそれに限りませんが)。
その意味で、今回の表紙の件については、非常に興味を持って見守っています。

今回の件について様々な意見が出ていますが、会員の意見はあまり表に出てきていません。その結果、いくつか事実と異なる点が議論されていたり、曖昧になってしまっていたりする点があります。会員として気になる点もあるので、現状で知っていることを述べることにしました。

ただし、私は今回の会誌の編集に関わったわけでもありませんし、人工知能学会を代表する立場でもありません。わかっていないことも多いです。あくまで、一会員の意見として考慮頂けましたら幸いです。

●表紙選定の際に取られた、一般投票の手続き

数多くの意見の中には「表紙は一般投票でも、圧倒的一位で選ばれた」従って「人工知能学会一般の意見が表紙に代表されている」ということを前提とした意見が散見されます。表紙に肯定的にせよ、否定的にせよ、これは事実とは異なります

以下、説明を述べます。

人工知能学会の表紙はクラウドソーシングで選ばれました。これは、普通の意味の「投票」とは少し違います。クラウドソーシングはまさに今回の人工知能学会の特集(ヒューマンコンピューテーションとクラウドソーシング)に挙げられていますが、人工知能の分野でクラウドソーシングという場合、不特定多数の人々を「計算資源」として捉え、計算機には難しい課題を代わりに解かせる、という発想を指します。ヒューマン(人間)がコンピューテーション(計算)するというやり方です。人間に課されるのはあくまでタスクで、全ての人間が参加することを義務付けられているわけでもありません。
関係者の方に話を聞いた印象では、今回時間を短縮するため、アイディア出しとコンセプトの策定手法として、クラウドソーシングを使った、ということのようです。

具体的な選定手順はどのような形だったのか、現状で把握した範囲について述べます。
選定サイトの広報はまず、会員以外も登録可能な人工知能学会のメーリングリストに対しアナウンスを送る、という形で行われています。「クラウドソーシングを活用してデザインの募集・選定を進めて」いる、というメールが届いたのは11/11(月)の昼過ぎで、そのメールに示された締め切りは11/13(水)と、極めて短い期間でした(実際には締め切り以降も投票できたようですが、その点は会員に連絡されていません)。このメールについて、私は残念ながら読み過ごしており、投票は出来ておりません。以上の詳細は、後でメールを検索して確認したことです。

メールを読む限り、表紙のデザイン選定に対しては「より幅広い読者層にアピールできるデザインを念頭に投票」という指示がありました。また「今回は、表紙のデザインを検討するものであり、デザインの中には差し替えて使用するものもありますが、それに関しては別の検討といたします」という指示もありました。確認していませんが、デザインには仮写真を用いた案もあったようです。つまり、このフェーズで選ばれた表紙が、そのまま使われない、と推測した投票者もいたかもしれません。

具体的な投票プロセスについて。これは後から関係者に少しずつ確認した情報になりますが、投票はLancersというサイトに委託され、各自がそれぞれ好きなデザインに票を入れる、という形だったそうです。デザインには数十の候補があったそうです。このうち、一位のデザインに対する投票数は会員数からすれば十分とは言えない数(多くても数十票?)だそうです。そもそも関心を持った会員が少なかった可能性があります。ここで選ばれたデザインを、背景の絵も合わせて、1月号の表紙として採用し、残りの号の背景はコンセプト含め検討中とのことです。

人工知能学会の会員は2200人いますから、学会員全員に対する本表紙への有効票の割合は全体の投票の1%~数%程度でしょうか。投票に関わった会員は多くても数%と推測できます。
以上から、「表紙は人工知能学会の会員の大多数によって選ばれた」という見方だけは、訂正しておきたく思います。また、これは熟慮を求められる通常の選挙とは異なります。「会員のうち数%が、11/11-13の仕事の合間に、幅広い読者層にアピールできるデザインを目指して、たたき台となる表紙を選んだ」と捉えるのが、現状をより表していると思います。ここから、表紙の選定が「会員全員の意識を表していた」と導くのは、ミスリーディングだと思います。

※補足しますと、編集委員会と理事会の投票がどのように行われたかは、私にはわかりかねます。

●表紙を見た時の私の印象と、この文章を書いた動機

私はただの一会員で、会誌には関わっていません。人工知能学会が表紙のリニューアルについて動いていることは知っていましたが、実際に確認したのは、表紙が発表される3日前の12月22日です。たまたま研究会のスライドを見て、そこで知りました。

その時点で懸念を感じ、Twitter上で関係者の方にお伝えしました。懸念内容は4点でした。

  • 「ジェンダー」:女性である
  • 「作業」:掃除というタスクを課せられている
  • 「有線で繋留されている」:自由が与えられていない
  • 「表情」:明るい表情ではない

そのうえで、無意識的な差別意識を暴き出す、というようなエクスキューズがあれば良い、とお伝えしました(また、学会誌という文脈を除けば、この表紙は好みである、ということは正直に述べました)。

「エクスキューズ」についてもう少し説明しますが、この表紙は、人工知能におけるモチベーションの矛盾をうまく示しているように思えました。人工知能の研究者の中には(非明示的にせよ)人間と同じような創発的な知能を作る、というゴールを目指す人も多いです。しかし工学的には、その知能に人間と同じような自由を与える動機はありません(工学の第一義の目標は、ある課題に対する解決策を提供することで、それ以外のことを考える必要はありません)。人間に似た形状をもつものを、掃除という課題で縛り、電力線で繋留している図は、その動機の矛盾点を暴きだしているとも解釈できます。「汎用の課題を解決できる人工知能に関する研究(Artificial General Intelligence)」の輪講に関わっていた身としては、このテーマは非常に気にかかるものでした。付け加えれば、ピグマリオンコンプレックス(特に「マイ・フェア・レディ」のような)観点から考えても、自律性と制御性というのは面白い課題だと思いました。

その時点ではこの絵が「「日常の中にある人工知能」というコンセプトで、掃除機が人工知能になっていることを表しています」という補足は無かったので、判断できる情報は絵のみでした(これは何か意図があることかもしれませんが、現状ではよくわかりません。ただ一つだけ言えるのは、公式にはヒューマノイドとも、アンドロイドとも、擬人化(掃除という作業の擬人化)とも決定していないようです)。
私個人としては、差別的と取られる可能性もあるが、手にとってもらう、という意味ではギリギリ問題ないのではないか、と判断しました。面白い題材を扱っているにも関わらず、必要な人に届いてない学会誌を手にとってもらうことが最も重要な目標であれば、その問題について目をつぶっても良いのではないか、と思ったのです。

そのとき、女性だけでなく男性も含め、少なくない人々が不快に思う可能性を軽視し、看過したことは、若干後悔しています(もちろん実際には、私が見た表紙は最終稿であり、変更はできなかったと思いますが)。また、この表紙を海外に持っていけない、ということに関しても、私は同意します(誤解されやすく、言葉を尽くして説明する必要があります。少なくとも、研究者にとってそれは不必要な労働です)。特に、将来学会に入るだろう外部の方に、本質を誤解される可能性があるという意味で、私はやはり「学会誌の表紙としては」不適切だったかもしれない、と思います。しかし、それで人工知能学会の全部にがっかりしてほしくはない。それは、もったいない!

これが、この文章を書いた動機です。

●ジェンダーと工学

今回の件で、一つだけ私が強調したいのは、物議を醸しやすいからといって、ジェンダーを工学的に利用する、という方法論自体を捨てるべきではない、ということです。
この点に関して、例えば「男性向け生理体験装置」を作成されたスプツニ子!さんと、行き過ぎたフェミニズム運動が表現の自由を脅かす事を恐れるクリエイターの方々と、我々AI研究者の方法論は、じつはそれほど異なっていないと思います(わたしは、アートとエンジニアリングは「人を動かす」という意味で本質的に同様のもの、と考えます)。お互いに争うべき動機も利得もあまりありませんし、合意点を探せるでしょう。

AI研究の中で、人と擬人的なエージェントとのインタラクションを探るHAI研究は、人間の要素を人工物に還元し、適用していく分野であり、その中ではジェンダーという要素も例外ではありません。例えば、性別による音声の好みに関するいくつかの知見がありますが、これらの知見は、カーナビ音声等に応用される可能性があります。また、推測ですが、Siriのジェンダーが女性として設計されているのは、おそらくHAIの知見あっての話でしょう。ただし、エージェントのジェンダーの設計に関する倫理的な問題は議論され始めたばかりです。面倒な問題かもしれませんが、ここには本質的な問いがあるかもしれない、と思います。

●未来の研究者、特に、女性研究者の方々へ

人工知能研究について、女性が冷遇されている、ということは私見ではまったくありません。確かに、全国大会で見る限り、男性の方が女性より多いでしょうが、それは研究がやりづらい、ということを意味しません(これは、私が男であるから目に入っていないだけだ、と言われればそのとおりかもしれませんが)

補足すれば、AI研究の中でもエージェントと人に関わるHAI研究は、特に女性が多い分野です。特に、海外の研究者に限れば、HAI研究はむしろ女性の方が多い分野と言っていいでしょう。例えばMIT Media Lab(米)のRosalind Picard、Cynthia Breazeal、カーネギーメロン大(米)のSara Kiesler、Jodi Forlizzi、ハートフォードシャー大(英)のKerstin Dautenhahn、トゥウェンテ大(蘭)のVanessa Eversなど。国内でも、人工知能学会の理事を務められている成蹊大の中野有紀子先生や、東京大学の三宅なほみ先生、関西大学の米澤朋子先生、大阪工大の神田智子先生など、様々な先生が手がけられている分野です(他にもたくさんいらっしゃいますよ!)。

人工知能学会は極めてフットワークが軽く、革新的な団体です(もともと、そうでなければ表紙の変更など提案にも登らないと思います)。例えば、昨年度より人工知能学会には、SF小説家のショートショートが連載されています。これはただ会員のための余興で載せられているわけではなく、「人工知能が小説を書く」というプロジェクトとの絡みで、こういった小説が掲載されています。これはつまり、小説家と研究者が、「同じ土俵で想像力を広げる戦いをしている」と、捉えることもできるでしょう。こういう試みを行っている学会は、めったに聞きません。(まったく余談ですが、本学会がティプトリー以降のSFの流れについていっていないのではないか、という意見には、かつてSFサークルの一部員だった身としても、反対しておきたいところです。まあ、表紙にノスタルジックな印象はありますし、議論を呼びそうですが)

また、本年5月には、人工知能の知性が人間を超えるその「特異点(シンギュラリティ)」に関する特集がありました。ここでは、単純に技術だけでなく、社会がどう変革されるか、人の倫理がどう変わるか、ということまで含めた議論が行われています(わたしはこのパネルトークの編集にかかわりましたが、シンギュラリティ大学のNeil Jacobstein氏の未来に対する力強い楽観主義と、Yahoo! ResearchのElizabeth Churchill氏による鋭い批判、オックスフォード大のWilliam Dutton氏の現実主義等を含め、訳していてとてもワクワクするものでした)。

あと、レクチャーシリーズ「人工知能とは」は、人工知能の研究者を志す人にとって参考になるのではないかと思います(私が面白がっている)。第一線の人工知能研究者の方々が、毎号入れ替わり立ち代り、「人工知能とはなにか」という大テーマについて、自分の持論を述べてお互いに議論する。しかも、相手の意見に対して経緯を払いつつも、相手の意見を安易に肯定せず否定も辞さない、という、ガチの討論です。毎号、ものすごく刺激的で、触発的です(私見ですが、このシリーズ、学会誌に掲載されているショートショートSFより想像力に溢れていると思います)

●最後に

人間の知性について自覚的な人々が、人の持つ差別意識の仕組みについて、無意識のままにしておくことはない、という方に私は賭けます。
もちろん、今回の件を通して不信を持たれる、という方もいらっしゃると思いますが、これは学会の今後の対応を待つのが良いと思います(関係者の方に確認したところ、既にいくつか、何か試みを用意しているようです)。

とにかく、私は学会の次の対応に期待したいと思います。


2011/08/04

クオリアに才能を投資するべきでないと考える理由

ダニエル・デネットの「Sweet Dreams」4章のクオリア議論から。
Wikipediaや邦訳の表現はわかりづらかったので、自分の中でわかるように表してみた。
まだわかりづらいかもしれない。

●クオリアの定義

クオリアに対する定義は、実は各個人で非常にバラバラである。
それでも、クオリアは下記のようなものである、という定義はおおよそ共有されているようだ。
「クオリアは一人称視点(主観)でしか観察できず、三人称視点(客観)では観察できないもの」
「内在的。人間に固有の属性であり、物理学的に同じ構成の人間を用意してもクオリアが発生するとはいえない」

●よく使われる言いまわし
・我々が赤という色を見たときの質感がクオリアである。
・生物学的に、人間の視神経や脳の基本的な構造は同じだ。
 しかし、物理学的な構造が同じでも、我々が見ている赤色は、他の人が見ている赤色と違うかもしれない。あなたの横にいる人は、あなたが青色を感じたときの印象で、赤色を感じているかもしれない。
・赤色を表す光の波長は定義できるだろう。しかし、我々が赤色を見たときの質感は
 共有できないし、従来の科学的手法では捉えられない。

・立場A:我々の意識の中で起こっているクオリアの問題は、科学の範疇では根本的に扱えない。主観的手法で扱うべきだ。
・立場B:我々が現在行っている科学的手法は、クオリアの問題を扱うのには不十分である。クオリアを理解するために、現在の科学的手法を拡張してやる必要がある。

●議論の前提となる知見
Rensinkらの研究。2つのよく似た写真をそれぞれ250msの期間、間に290msの何もない黒い画像を挟んで交互に見せると、人間は数秒後から十数秒後に初めて、その2つの映像の違いに気づく。
たとえば、棚の扉の色が片方の写真では白い。もう片方では緑。

●問い
扉の色の違いに被験者が気づくまで、被験者のクオリアは変化したと思いますか?

●選択肢
A. はい
B. いいえ
C. わからない

→A「はい」を選んだ人
自分の中で定義したクオリアは、物理学的な変化に基づいて変化し、被験者自身の一人称視点ですら観察できない場合があると認めるざるを得ない。
クオリアの定義「一人称視点でしか観察できず、三人称視点、従来の科学的手法では観察できない」が怪しくなる。
自分自身のクオリアを最もよく観察できる人物は、自分じゃなくて他人かもしれない、という事実を認めざるを得ない。

個人的結論:内観で観察できないけれど科学的観察が出来るものがあると主張するなら、素直に科学的な手法で調べればいいんじゃないか、って話。内観から調べることで省力化できる例はあるかもしれないが、他人と意思疎通のし易い科学的手法を選ぶのがベターだろう。


→B「いいえ」を選んだ人
物理学的な脳の状態観測で違いがない状況でも、クオリアは主観によって変化する、とクオリアを定義する立場を選んだことになる。
自分自身のクオリアに対して、あれこれ言う立場を保つことが出来る。
ただし、今度はクオリアの定義「内在的。人間に固有の属性であり、物理学的に同じ構成の人間を用意してもクオリアが発生するとはいえない」が怪しくなる。
この場合、クオリアとは単に”気づき”の状態を定義した別の用語に過ぎないことになる。

また、この立場を取る場合、哲学的ゾンビと人間の差はなくなり、哲学的ゾンビがクオリアを持つことを論理的に否定できない。
物理学的に同じ構造のゾンビを作成したとき、このゾンビも同じタイミングでクオリアが発生した、と述べることが可能。これは哲学的ゾンビの議論の前提を崩してるし、哲学的ゾンビが現実に存在するという、全ての妥当な理由を奪っている。

結論:物理的に同じ構成でもクオリアが存在しうる(否定できない)なら、それ作って検討して良いことになる。不確実な内観に頼るよりマシ。


→C「わからない」を選んだ人
ギブアップ宣言。この場合、発言者は自分の中でクオリアを定義できていなかったか、クオリアは主観でも観察できないし、科学的手法でも観察できないと発言したことになる。

結論:この立場の人は、クオリアという用語をファッション以上のものとして見ていない。

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●個人的意見:
私は古典的な唯物論者に近く、デネットと同じ立場でクオリアという用語を見積もっている。
脳みそのためのチューインガムかファッションに属するもので、酒の席の話としてはいいが、真剣に議論し、思考を投資するのは時間の無駄ではないかと疑っている。

もちろん、一見無駄な言葉遊びが、重要な概念を類推させることはあると思う(そういった類推による思考法は、個人的に大好きだ)。
ただその場合、クオリアという単語は科学の棚ではなく、小説やアートと同じ位置に置くべきだろう。趣味として投資する分には問題ないけれど、重要なものであるかのように喧伝するのは、いささかの倫理的な問題があると感じる。

●個人的興味:
クオリアが存在する、クオリアという概念に思考を投資するべきだ、と考える人が、上記の問いに対しどの答えを選ぶかは気になる。また、その反論も

●感想:
時間による現象の推移を真面目に考えたのが、デネットの勝利要因ではないか。
サールの中国語の部屋にとどめを刺したIJCAIの論文(中島先生が今年の人工知能学会誌1月号で解説された論文)も、2つの一見同じような情報処理を、計算量のオーダーの違いに落としていた。
古典的な哲学は、動的な概念を扱うための道具を欠いているように見える(単に知らないだけかもしれない)

今の時代、人間の意識・思考の問題を真面目に扱いたいなら、正面から生物学に取り組むか、情報科学の手法をもって上下に押さえこむか、どっちか、あるいは両方じゃないか。
少なくとも、進路を迷っている他人に対し、私はこの立場で助言する。

2010/01/08

Nexus One

明けましておめでとうございます。
前回の更新からずいぶん間が開きましたが、MITのAgeLabで研究を行ってます。


話題のスマートフォン、Google Nexus Oneを買ってみました。
1/6の夕方に注文して、今日届いてました。仕事が早いです。



パッケージは綺麗な白い紙箱で、四辺にGoogleカラーが入ってました。
ソフトケースもついてくるという大変嬉しい配慮。
ただ、シンプルなんですが、簡単な起動説明シートだけでマニュアルが入ってません。
たぶん、何も知らずに買うと、まずバッテリの蓋が開けられません。ググッてください。

プリペイド携帯のSIMカードを刺して動くかと思ったのですが、
どうやら、カードによっては駄目なようです(ピンポイントで駄目なものを買ってしまいました…多分

なので電話はおあずけですが、無線LANが使えるキャンパス内なら
メーラーもブラウザもマップもニュースも天気予報も、どこでも使えます。
GPSとGoogleMapの連携はとても便利。
youtubeは専門のアプリからアクセス可能です(ニコニコ動画はflashのバージョン違いで見れません)

嬉しいことに日本語UIも選べます。
fontに癖がありますが、細部まで日本語化されています。
が、ソフトキーボードで日本語入力ができません。あの素晴らしいGoogleIMEはどこに。
なぜか日本語音声認識は可能です。


こっちに来てから、cookpadのレシピを見て料理することが多いのですが、
日本語入力が出来ないので、キッチンで一生懸命「じゃがいも」とか「うどん」とか叫んで
入力してみました。

Nexus Oneに向かって音声認識させるのは、まだちょっと躊躇われます。
(良く考えたら電話に話してるだけなんですが)



iPhoneをまだ使ったことがなかったので、始めてのスマートフォンになりました。
今のところ、すっごいpalmという感じですね。

2009/09/24

Free Beer!



Bio_100%のFree Beerが当たりました!
すっごく青いよ!

自他共に認めるBio_100%世代でしたので、ものすごくうれしい。
master.libにはお世話になりました。



報告が遅くなりましたが、これから半年間、米国に出張に行ってまいります。
ではではでは。

2009/08/04

SIGGRAPH2009参加中


絶賛デモ中です。

デモ用の機器はWal-martで買いました。どれもものすごく安いです。
思ったよりブースが暗いなぁ、という印象。映像系のイベントだからでしょうか。