Drawing AI Ethics in Manga - "AI no Idenshi"

「AIの遺電子」を海外に勧めるなら、と思って書いた文章。書きかけ。この記事は後々編集されます。


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AIの流行によって研究者だけでなく一般に向けても、多くの出版物が出版されている。日本においてもその状況は同じであり、研究者と作家が組んだアンソロジー等も多く登場している。特にサブカルチャーに特色を持つ日本では、こうした紹介がノンフィクションや小説だけでなく、漫画やアニメといった形でも描かれる。その一つの例として、山田胡瓜氏の「AIの遺電子」を紹介したい。

山田氏はインターネットのニュースサイトでの記者の経験を持つ作家である。そのサイトで「バイナリ畑でつかまえて」というシリーズを出版したのが彼の商業的な経歴の始まりとなる。「バイナリ畑でつかまえて」は、「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルをもじっている。最先端技術によって変容する人間関係を繊細に描いた作品であり、識者の間で評価の高い作品集であった。
その山田氏が、週に一回連載される少年漫画の世界で続き物として描いた作品が「AIの遺電子」である。この作品は週刊少年チャンピオンにて2015年11月から、2017年8月まで連載された。現在は続編の「AIの遺電子 RED QUEEN」が別冊少年チャンピオンで連載中である。この作品は多くの読者のみならず、AIに関わる研究者の注目も集めている。例えば深層学習の研究で有名な東京大学の松尾豊氏や、ロボット倫理に関する哲学者である久木田水生氏がこの作品を勧めている。私も本作品の愛好家の研究者の一人である。

「AIの遺電子」はヒューマノイドやロボットの「治療」を行う「医者」須藤を主人公とした短編集である(須藤は日本人の名字としてはありふれたものだが、一般ユーザに管理者権限を与えるUnixのコマンド名と同じスペルでもある)。登場する人間やヒューマノイドたちは様々な悩みをもって須藤に関わり、その治療を受け、結果としてかれらの「人生」のあり方を決める。
こうしたヒューマノイドの治療は配線を繋ぐような直接的な「修理」として描写されることもあるが、物語中では須藤が心理療法士のように対話を通じて分析する過程も描写される。ヒューマノイドの心的問題を推定する須藤の手法は、AsimovのI, robotに登場するSusan Calvinを彷彿とさせるが、一方でかつて同誌少年チャンピオンに連載された、裏医師の治療を軸とした短編集、手塚治虫の「ブラックジャック」を彷彿とさせる点も多い。ブラックジャックと同じように、須藤は裏の顔を持っており、高額の治療費をとって法的に許可されない治療を行う、モッガディートと呼ばれる裏医者の顔がある(モッガディートは、James Tiptree, Jr.の短編集に登場する非人間型の種族から取っており、本作品のSci-Fiに対する配慮を暗示する)。
須藤はブラックジャックと比べると感情の起伏が少ない人間として描かれる。ブラックジャックの助手であり、再構成された人間であるピノコと同じように、彼にはリサという名前の助手のヒューマノイドがおり、彼女が物語におけるコメディリリーフの役割を果たしている。感情の起伏が少ない人間と、喜怒哀楽の豊かなヒューマノイドのコンビネーションは、私達の技術に関する固定観念を揺さぶりつつ、技術と人間性の関係性の危うさを示唆する。

物語には3種類の登場人物が登場する。人間、ヒューマノイド、そしてロボットである。山田氏は、物語を進める人工的なキャラクターを、ヒューマノイドとロボットに分割するという鮮やかな手法で技術的問題の本質をえぐり出す。ヒューマノイドは人間と同様の人権を持っており、その内面の苦悩まで詳細に描写される。ヒューマノイドは能力や価値観といったパラメータを大きく変更可能であることを除けば、我々とまったく変わりはない人間である。物語上、こうしたヒューマノイドは最先端技術によって価値観の変更を迫られる人間を示唆している。一方の、この作品のロボットは人権を持たない「道具」として扱われており、その内面は決して描かれることはない。ロボットが登場する物語では、ロボットを取り巻く人間やヒューマノイドが、そのロボットをどう受け止めるかが描かれており、最先端技術を受け入れる人間社会の難しさを描いている。

AIの遺電子で描かれるAI・ロボットたちは、極めて抑制的であり、他のAI・ロボット小説やマンガと比較すると、より現実的である。これは山田氏がもともと技術系サイトの記者であったことと無縁ではないだろう。静謐なトーンで描かれる本短編集は、アクション映画に登場するような近未来的なAIやロボット技術でなくても、そこには私達の心を十分動かすような問題が含まれていることを、読者に教える。ヒューマンエージェントインタラクションの研究者としての、私のお気に入りの例をいくつか挙げたい。28話の「謝罪」では、暴力的なクレーマーに謝罪を行うための専門のエージェントが登場し、「見本的」な問題解決を行う(彼らのやりとりは、あまり好ましくないタイプの「伝統的な」日本らしさを兼ね備えており、私はこれを苦笑しながら眺めることになった)。これは相手の感情に合わせる感情労働の一種だが、登場したエージェントたちが人間であるか、あるいはヒューマノイドであるかは、最後まで明かされない。AIやロボットは人間の労働を置き換えるものではなく、その補佐をするものである、という言い訳はよく行われる。しかし技術が発達し人間に残される仕事とは、つまりはこうしたある種の感情にかしづく仕事しか残っていないのかもしれない、ということをこの物語は示唆する。あるいは彼らエージェントをヒューマノイドと解釈すれば、こうした「人間らしい仕事」こそ、人工物に任せるほうが我々は「人間的な」生活を送れるのかもしれない、ということも暗示される。一方の55話の「喧嘩夫婦」では、冷めきった夫婦の間を取り持つため、須藤が関わる。これは大きな事件ではないが、人間の感情の生得的な側面と社会的な側面が余すこと無く使われている。物語でしか描き得ない繊細さを持っており、グレッグ・イーガンの「appropriate love」と比較しても、遜色ない価値を持っている。

その大きな注目にも関わらず、AIの遺電子には未だ英訳が存在しない。作者の山田氏は現在続編を連載中であるが、一方で過去の作品を選集として選び、英訳することに興味を持っている。FLIやIEEEといった技術に関する著名な団体が、AI・ロボット倫理に関する議論を活発に行っている昨今、彼の短編を一つの未来の描写の手がかりとして議論するのは、意義のある機会となるだろう。私も良い定訳が出ることを望みたい。

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